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私が鍼灸師になるまで

" スタッフ雑記, 栗原誠 "

2014年8月7日

オーナーの栗原です。

 

独立してから12年が経ちました。東京で出張専門の鍼灸院から始め、地元群馬での開業。そして、現在ではカポスのオーナーとして充実した日々を過ごしています。ここまで来るまで、たくさんの方に支えて頂きました。感謝の気持ちを伝えきれない方もたくさんいらっしゃいます。

ラクなことばかりではありませんでいた。ここまで至る過程で葛藤や我慢もありました。患者さんの前で話す内容でもありませんから、ここに記しておこうと思います。個人的なお話になりますが、「なぜ鍼灸師をやっているのか」というところに少しでも興味をお持ちでしたら少しお付き合いください。

鍼灸との出会い

群馬の田舎育ちの私。

 

最初に鍼灸を受けたのは16歳。高校生の時でした。中学生2年生の頃から膝に激痛が出るようになりました。普段は全く平気なのですが、膝を深く曲げると伸ばす時に激痛が走るのです。声も出せないほどの強烈な痛みなのです。普段の生活でも膝を深く曲げられず、体育の時間も70%くらいに力を抑えて参加するしかありませんでした。

 

膝専門と言われる整形外科医に診てもらっても全く良くなりませんでした。痛い検査をされたあげく、「わからないですね~」と。自然回復を期待し1年半。高校生になって落ち着いた頃、鍼灸院に行ってみることになりました。父と母が通っていた家からクルマで15分ほどの距離にある鍼灸師一人の小さな鍼灸院です。

 

この時、私は全く期待していませんでした。膝専門の医師が検査をしてもわからないのに、近所の鍼灸院でわかるはずがない、と思っていたのです。他にすがるものがなかったので、しぶしぶ行くことにしたのです。建物は古びた木造。胡散臭さが漂っていました。こんなところで「よくなるわけがない」という気持ちはより固まっていきました。私の期待は萎んでいきました。

入口を開けると、人が2、3人いたら窮屈な待合室。奧から中年の男性が出てきました。主(あるじ)の鍼灸師です。「どうしたの?」という問いに事情を説明しました。どちらの膝かか説明をする前に、ズボンの上から突然両膝を触れ始めて、「あ、こっちだね」と右の膝を指摘したのです。

 

その指摘は正解でした。病院であんなに検査しても「わからない」という膝を服の上から左右を見抜いた男性。驚くより混乱しました。「医者とは何か」という本質的なところに私の思考は引き込まれてしまいました。

 

初めて鍼をされた時の感覚は覚えていません。わからなかったからです。気がついたら鍼をされていました。鍼は時にチクッとすることもありますが、注射と比べればゼロに限りなく近い感覚です。鍼治療とは何かを考える前に、治療はどんどん進んでいきました。1週間に1回程度のペースで通院し、膝の症状は徐々に改善されて生きました。

 

お話としては、1~2回で劇的に完治と書きたいところですが、「徐々に」という一般的なペースの回復でした。だとしても、病院の「わからない」という結論と比べれば、私の体験には十分なインパクトがあったのです。春に治療を開始して、冬にはスキーをしていました。

 

鍼灸師になりたい

膝の治療中から一つの想いが芽生えていました。「鍼灸師になりたい」という想いです。鍼灸師という職業にあこがれ始めたのです。「儲かる仕事ではなさそうだけれども…」と前置きが必要でしたが、カッコイイと思ったら高校男子の想いは止まりません。

 

その鍼灸師の名誉のために書き添えると、その数年後、鍼灸院を新築し、「儲かる仕事ではなさそう」という私のイメージは書き換えなければなりませんでした。後からわかったことですが、私が行った鍼灸院とは地域ではとても有名で、とても評判のよいところだったのです。飾らない雰囲気が人気の理由だったのかもしれません。

 

私が鍼灸師を目指すことを知った両親は大反対でした。「食べていける鍼灸師はほんの一握り」であることを私に説明し、断念するように説得に入りました。両親の指南は妥当でした。私が行った鍼灸院のように流行っている鍼灸鍼は数えるほどしかありません。鍼灸師になったところで食べていける確率は低いのです。無料で免許が取れるならまだしも、学費は決して安くありません。

 

やる気のない大学生

その時はあきらめる意外に道はありませんでした。大学で生物を勉強することで気持ちを入れ替えようとしました。目的を見失って勉強はやる気なし。中途半端な対策で大学受験がうまく行くはずがありません。志望校に落ちてしまいました。どうにか他の大学に滑り込むことができ、そこで4年間を過ごすことになりました。

 

事件は、大学3年生の時に起こりました。周りが就職活動を活発にしているにも関わらず、私は無気力。何もしたくありません。「鍼灸師になりたいな~」と頭の中でつぶやく日が増えていきました。いったん消したつもりの火が消えていなかったのです。

 

両親に進路相談をすると、改めて大反対。当然だと思います。引かない私に対して、父は仕送りをストップしました。「稼げる能力もないのに好きなことばかり言うな」ということなのです。引く気のない私はバイトを増やして耐えました。言葉にすると一文ですが、ひもじい生活です。仕送りで生活し、バイトで稼いだお金を遊びの注ぐ友人たち見て羨ましいと思っていました。

 

覚悟を決めた専門学校

当然ですが、鍼灸の専門学校は入試に合格しなければ入れません。ちょうど私の時代は倍率が高く、受検しようと思った学校は10倍。この倍率を避けるために推薦入学を試みました。

 

卒業した高校に足を運び、推薦書をお願いしたのです。4倍と倍率は下がったものの、結果は不合格。父からは「ほれみたことか」と言われました。悔しく悔しくてたまりませんでした。

 

残された10倍の試験に合格しなければ、鍼灸師の道は閉ざされます。不合格なら誰も私が鍼灸師になることを望んでいないとキッパリあきらめることにしました。覚悟を決めて臨んだ10倍。気合い勝ちで第一志望の専門学校に入学することができたのです。

 

両親にしてみれば、無駄な大学と4年間です。しかも、その先どうなるかわからない鍼灸師という道。食べていけない医療系国家免許で不動の1位だからです。専門学校での3年間は国家免許に合格するための時間であると同時に、鍼灸師として食べていくのに必要なスキルを養う時間でした。

 

蓋を開けてみれば、大学の4年間は無駄ではありませんでした。

たとえばインターネット。ブロードバンドが普及する前から、大学の端末を使ってインターネットと親しんでいた私。独立後、迷うことなくインターネットに力を注ぐことができたのは、この経験のおかげです。

 

もう一つは、本を読む習慣と文章を書く訓練。4年生の時に所属していた研究室では、「毎日本を1冊読んで、その感想文を提出しなさい」という重い課題が与えられました(私にだけ)。私が文章をスラスラかけるのも、この経験のおかげです。

 

開業する前にも、大きな壁が待っていました。その話は次の機会で。

 

栗原誠

<オーナー 栗原>

 

初めての鍼灸院

この記事を書いた人

はりきゅうルーム カポス オーナー(鍼灸師)

群馬に拠点を置き、東京と往復しながら慌ただしく仕事しています。効果がわかりやすい鍼灸を求めて研究の日々。その成果をカポスにどんどん投入しています。

 

養気院 院長

株式会社 活法ラボ 代表

一般社団法人 整動協会 代表

 

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